久松寺の起源


妙光山 久松寺

 郡山城の西方に位置する妙光山久松寺は、慶長元年(1596)5月28日、本多美濃守忠政公を開基とし、室熊姫(岡崎三郎信康息女、徳川家康公織田信長公孫姫、法名、妙光院快誉裕慶大姉)往時の由緒を追想し、亡父徳川信康公(通称・岡崎三郎信康)が非業の最期を遂げた故、その菩提を弔う為に建立された寺です。(※1)
 本多公が郡山城主として在位するにあたり、久松寺は本多家の菩提寺としてだけではなく、大職冠(鎌足神社)の御前に位置し、聖徳太子、藤原鎌足公、達磨大師、道貫律師等をまつり、特に本尊十一面観音は郡山観音三十三所第三番、久松寺観音として、郡山の人々に篤い崇敬の念をもって護られた寺でありました。
 特に寺領150石と史実にあり、郡山で最も大きな寺院であったことが窺えます。
 しかし、時代はかわり、昭和9年9月21日の室戸台風によって堂宇悉く倒壊し、以来再建を見ることなく、75年の月日が流れました。
 その間、本尊十一面観音をはじめ仏像等は、八幡神応寺に仮安置しお護り頂き、寺域の清掃等はすべて、久松寺の歴代総代をはじめとする信徒の皆様の篤い信仰の心によって護持されてきたのであります。
 縁あって、平成13年1月24日、久松寺代表役員に就任して幾歳月が流れましたが、「久松寺再建」は関係者すべての人々の悲願でありました。
 
 平成20年7月21日、落慶の法要を無事務めさせて頂くことができました。
 これらは、すべて仏天の加護と皆様の温かいお心の賜物であり、関係者一同感激いたしております。
 
久松寺 東堂  丸子孝法 合掌
久松寺   住職   丸子道仁   合掌
 
(※1)慶長元年開基については本多忠勝公の意思が大きかったと推測されています。忠政公は当時22歳。
 
尚、久松寺の歴史を顧みるにあたり、関東の大塚様より多大なるご資料、ご推考を賜りました。深く御礼申し上げます。